函館市文化・スポーツ振興財団

アレクサンドル・ドミートリエヴィチ・チハイ 1840年~1893年

ニコライ主教を補佐するために来函し、北海道に於けるキリスト教の布教に努めたアナトリイ神父。

天保9年11月23日、父デミトリー・フェルドルヴィチ・チハイ、母エリザウェタ・キモウナの長男としてウクライナ共和国の最南チェルノヴィツク州(オーブラスチ)の南西部ズブルチ川がドニエストル河に流れ込む地点に位置する小さな町、ホチンに生まれる。弟に聖歌隊指揮者として来日したヤコフがいる。
アナトリイ神父は、神学校を卒業するとすぐにギリシャ正教の聖なる山アトスで修道生活を送った後、キエフ神学大学に入学する。
明治4年、卒業と同時に自ら志願して、この年の暮れに来日する。以後23年4月、病を得て帰国するまでの約20年間、ニコライの「同労者」(「補佐役」のこと)として布教の任にあたる。特に目覚ましかったのは、ニコライが東京に去った直後の5年、函館に起こった「窘逐(きんちく)(正教会ではこの種の迫害をこう呼んでいる。)の祈りで、彼は手足と頼む3人の日本人伝承者が投獄され、印刷所も閉鎖されるという困難にもめげず、しかも日本語が不自由であったのにもかかわらず、伝教学校を守り続ける。
その後、明治11年からは大阪の正教会を管轄し、15年にはこの地に伝教学校を興すなど、ニコライの信任も厚く、周囲からはニコライの良き後継者と目されていた。
明治26年、惜しむらくは遺伝性の脳病が昂じて帰国のやむなきにいたり、進行性の脳性麻痺と診断され、3年後、ペテルブルグで逝去した。享年53歳であった。
日本人の信徒たちは、ニコライを厳父として畏れ敬ったのに対して、アナトリイ神父のことは、慈母に例えて追慕した。ニコライも、日記の中でこそ手厳しく批判してはいたものの、口に出してはアナトリイ神父のことを、「私は彼以上に素晴らしい補佐役を望むことは出来ない」と語っていたという。それだけにアナトリイ神父の死去の報に接した時には、ニコライの落胆も信徒の悲痛もことのほか大きく、後に人々は大聖堂(通称・ニコライ堂)の南面に大きな十字架を建て、アナトリイ神父の人柄と業績を偲んだ。
函館は日本におけるロシア正教の発祥の地。函館ハリストス正教会はロシア領事館の附属施設として初代領事ゴシケーヴィッチの時代、万延元年に建設され、今年(平成23年)150周年を迎えた。

本文/「ステップアップ」vol.272(2011.11)より
(写真/市立函館博物館、資料/「ニコライ堂の人びと・日本近代史のなかのロシア正教会」長縄光男著、「ニコライ堂遺聞」長縄光男著、「日本正教史」 牛丸康夫著、「キリスト教と日本の洋楽」中村理平著、「日本正教伝道誌」、「来日西洋人名辞典」、「函館外史」、「正教時報・回顧断片(1)」三井道郎遺稿、取材協力/函館ハリストス正教会、函館市中央図書館)

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