函館市文化・スポーツ振興財団

秋山 富雄 (あきやま とみお) 1905年~1937年

ロシア人ギタリストの演奏に心惹れ、激しいセゴビア風な演奏で聴衆を魅了した鬼才秋山とみお。

明治38年函館に生まれる。大正初期、帝政ロシアに革命勃発、難を逃れて函館に亡命したロシア人ギタリストの演奏に心を惹れ、知人と共にギター音楽の研究を始める。
大正8年4月、函館商業学校に入学。この頃よりギター音楽に対する愛着愈々(ますます)強烈となり、自ら精進する傍ら同級生及び上級生にギターを教授するようになる。函館における学生音楽家として、その名を漸く知られるようになる。13年今まで以上にギター音楽の研究に専念するようになり、その技は次第に円熟するが、このため学業がおろそかになり、やむなく学校を中途退学する。この年創立された函館北方マンドリン倶楽部でギターを教授する。
大正14年、函館ギター研究会を創立。15年12月の新聞には”当市のギター演奏者鬼才秋山とみを氏の第1回演奏会が来る19日開かれる。これは当市に於ける最初のギター演奏会である。…“こんな記事がある。しかし、数日後大正天皇が崩御され演奏会は開催されなかった。
昭和3年2月28日、第1回ギター独奏会を恵比須町函館組合キリスト教会において開催する。演奏された曲目は、フイレール/タベの印象、サルコリ/夜曲、タレガ/別れであった。以後、毎年独奏会を開く。市外では室蘭、道外では弘前等精力的に演奏活動をする。
昭和9年3月、函館市の24000戸を焼失する大火があった。当時の事を遺児の秋山久美さんは″父は躾にとても厳しい人でした。食事の時以外は書斎から出ることもなくギターを研究していました。大火のときに、父がギターと子供たちを連れ、母が楽譜一杯の重たい柳梱(やなぎごうり)をしょって必死に逃げました。病弱な父でしたから、その時家業でしたお風呂家が焼失してしまい、再開することが出来ず、その後が大変でした。“と述べている。また門弟の1人は”秋山先生は、芸術に対し鬼気迫る感じでしたが、レッスンは厳しくありませんでした。冬でもオーバーなんか無いものですから、皆さんが気の毒に思っていましたが…何せ現実的でない方、ロマンチストでした。娘心から見ればちっとも変でなかったです。立派な方でした。“とも述べている。
昭和10年7月18日、上京し早稲田学生街にギター教授部を開催するが病に倒れ、10月中旬帰函、上磯の実家にて静養する。11年には病も小康状態となり、7月25日、大谷幼稚園において独奏会が開かれた。これが実に秋山富雄の最後の独奏会となった。当夜の演奏曲目は、テルツ/5月の宵、グラナドス/祭典の反響、アルベニス/伝説、グラナドス/西班牙風舞曲No.5、タレガ/アルハンブラの憶出、マラツ/西班牙風セレナーデだった。聴衆はいずれも卓越した弾奏、幽邃(ゆうすい)な演奏美に酔っていた。
この演奏会の後、病が急に悪化、再び上磯の実家に帰り静養するが、翌年の昭和12年5月14日、惜むべく、遂に快復の機を逸して不帰の客となり、高龍寺に葬る。行年33歳であった。

本文/「ステップアップ」vol.127(1999.10)より
(写真・資料/「函館のギター史」千葉敏生・竹内守夫共著 函館ギター協会編集)

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