函館市文化・スポーツ振興財団

阿部 鑑(あべ・かん)1880年~1960年

明治から昭和にかけて自立する女性の先駆者として、また久生十蘭という著名な作家を育てあげた母、阿部 鑑

明治13年1月10日、阿部新七とカシの次女として函館区春日町5番地に生まれる。父・新七は阿部家に養子に入って回漕業を受け継ぎ、阿部家の娘カシと結婚、父母26歳のときの子どもであった。
明治33年1月10日、満20歳を迎えた日に長女テルを、35年4月6日に長男正雄(後の直木賞作家・久生十蘭)を出産する。2人の父親は阿部家の番頭頭だった小林善之助で離婚後は、旭川に移住する。子どもたちは、阿部の姓で、鑑は両親に助けられながら2人の子どもたちを育てる。
明治41年2月1日、28歳の鑑は北海道庁立函館高等女学校(現・北海道函館西高等学校、以下庁立高女)の華道・茶道・裁縫の嘱託教師として就職し、23年間在職する。
明治43年、30歳になった鑑は2人の子どもを両親に預けて、東京へ茶の湯・生花の修行に出る。その足で京都のお茶席を見、堺付近の名のある茶席や庭園を訪ね回る。
明治45年3月、函館区立弥生尋常小学校を卒業したテルは、晴れて庁立高女に進学する。テルが入学したとき、母鑑はこの高等女学校の嘱託教師であった。その後、テルも高砂小学校の訓導(※)になる。
一方、正雄は函館中学校(現・函館中部高等学校)に入学するも退学。東京の聖学院中学校の3年に編入するもまたもや退学。母鑑は短歌仲間の長谷川由紀に頼んだのだろうか、由紀の夫、長谷川淑夫(世民)の経営する函館新聞社に入社し、新聞記者となる。
昭和4年12月、27歳の正雄は横浜からシベリア鉄道経由でパリヘ。8年2月まで、足かけ4年間フランスに滞在する。
昭和6年10月、鑑は23年間勤めた職場を辞めて、11月、正雄の居るパリヘ向かう。この時鑑51歳、鑑を知る多くの友人たちは大変な驚きだっただろう。滞在中は、モンパルナスで花の展覧会を開くなど、日本の生け花をパリに紹介する機会を得て、函館の華道界にその情報を伝え、華道の普及に尽力した。
昭和7年5月、鑑は再びマルセーユから船旅で帰途に就く。
昭和22年12月、十蘭は鎌倉に引っ越し、翌年鎌倉市材木座に転居する。鑑も静岡の疎開先から戻り十蘭夫妻とふたたび同居し、ここでもお茶を教え、多くの弟子を育てた。
息子の久生十蘭は昭和32年10月6日、食道癌により死去。
昭和35年2月3日、鑑は十蘭の死から3年後、鎌倉市材木座の自宅で肺炎のため死去。享年80歳であった。
鑑は、「高女の教授(教師)」という肩書きのほかに「阿部社中」「花道雙月流家元」また「阿部雙月庵」として活躍し、経済的に自立した女性といえよう。
※訓導は、現行の教育法令でいう教諭と同等の職にあたる。

本文/「ステップアップ」vol.321(2015.12)より
(写真/庁立高女卒業記念アルバム
参考資料/「函館・道南女性史研究第十七号」
取材協力/函館市中央図書館、函館市文学館、酒井嘉子氏(道南女性史研究会))

このウェブサイトに掲載の文章・イラスト・写真・音声その他のコンテンツの無断転載を禁じます。
© Foundation for Culture and Sport Promotion in Hakodate