函館市文化・スポーツ振興財団

阿部 覺治 (あべ かくじ) 1888年~1936年

新しい時代の函館を夢見、市民に「大函館論」を捧げた海産物商人、阿部覺治。

明治21年1月22日函館の海産商の家に生まれる。
明治33年、函館商業学校へ入学する。しかし都合上中途退学し、以来一意専心家業に従事する。覺治は自らの営む海産委託販売業が依然として昔ながらのやり方で何の進歩・発達していないのを大変遺憾に思い、本道、内地、樺太方面との取引に就き、長年にかけて調査研究し種々改善する。覺治の努力が酬われて、函館における一流海産商となり取引市場で活躍することになる。
また覺治は熱心な津軽海峡中心論者で、雑誌「港湾」紙上に発表した「大陸終端港問題と津軽海峡」は専門家の意見として傾聴の価値のあるものであった。
大正12年、覺治は市民に向けて、未来の函館の姿を説いた「大函館論」を発刊する。内容の一部を原文のまま紹介しよう。
函館市民の抱負は須らく函館の港湾を延長して海峡全部に及ぼし、青森を醒まし、福山を活かし、大湊を起たしめ、津軽海峡をして南日本と、北日本と、米大陸と亜細亜大陸とを背後地とせる一大港湾となし、此処に世界的商権を集中せしむるにあらざる可からず。
函館の生命は漁業にあらず、海産にあらず、其生命や懸りて一に海峡商權の掌握にある可し、汽船の一艘だも函館の立場を外にしてこの海峡を通過せしめざる事、これ函館市民唯一の信條たらざる可からざるなり。
海峡商權の掌握!!、これぞ函館市民の一日も忘るゝ能はざる生命の鍵なるぞかし。
西、龍飛と白神の岬より、東、尻矢と恵山の岬に到る間、海鳥の群をなす処、潮流渦く処、海波踊る処、大函館の偉大なる運命は封じてこの海峡商權の掌握如何に存す、市民茲に留意する処ありて努力を怠らざれば、大函館の創造期して侯つ可く斯くして天興の使命を完うするを得ん。
函館の経済的勢力の最も延び居る所は、北海道の行政より最も遠ざかり居るの地たり、見よ、函館の漁業家の命脈を繋ぐ三大勢力と稱せらるゝ、擇捉、樺太、勘察加を、北海道の政廳廃の支配下にあるものは洋上の島嶼擇捉あるのみ樺太、勘察加共に露国領たり。
海峡商權の基礎愈々固うして漁業経済は益々函館に密着せしむるを得可く漁業経済の発展愈々顕著にして海峡商權掌握の理想はこれが實現を容易ならしむるを得可した。
この海峡あるが為め函館は世界的市場たるの可能性を有す、故に海峡こそ函館の生命にして、市民の使命は亦この海峡をして一大港湾たらしめ、以て茲に世界的新市場なる大舞臺を建設するにある可し。
また、覺治は新聞紙上でも多くの評論を残している。函館新聞において連載した「我観函館」の中で「北海道本位から見れば中心は小樽札幌であるが、東北と北海道とを一丸とした位置から見れば函館は実は其中心である」という論旨からわかるように、函館の勢力範囲を東北に求め、相対的中心地がいわゆる海峡圏になるという論理である。そのために東北商圏において横浜の進出がもっとも問題と指摘し、函館市民は相当の犠牲を払っても東北への勢力を拡張する必要性を説いている。なぜなら、函館は「東北に対しても勢力を失ふと言ふ事は同時に北海道に対しても立場を失ふと言ふ事」を意味していた。
昭和元年10月、初めて市会議員に当選し、市政に尽力する。一方で運動方面にも明るく、殊にウインタースポーツの熱心な提唱者として知られ、覺治自身もスケーティングが得意だった。
昭和11年8月8日、温厚にして覇気に富み、新知識をもって、未来の函館を夢見た阿部覺治は49歳の若さで帰らぬ人となった。

本文/「ステップアップ」vol.142(2001.1)より~NO.130
(写真・資料/「函館市要覧」土橋由太郎著、「大函館論」阿部覺治著、「地域史研究はこだて」21号・市史編さん室)

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